大坂の陣が終わった1615年に宇陀松山城が破城となり、麓に陣屋が作られ、宇陀松山藩の中心は陣屋になりました。陣屋そのものは残っておらず西口門、春日口に石垣の一部と城下町に枡形が残っています。
■信長の次男、織田信雄
この宇陀松山藩に入ったのが織田信雄。信長の次男です。信雄は信長の伊勢攻めでは伊勢・国司だった北畠家にM&A戦略で入り込み、最終的に北畠家を乗っ取ります。本能寺の変のあとは秀吉と組んで三男・信孝と対立し、賤ヶ岳の戦いでは秀吉側に味方します。ところがその後は家康とくっついて秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦いましたが、秀吉に伊勢に攻め込まれて単独和睦します。
大坂の陣が終わった時には、60歳前でしたので家康から与えられた宇陀松山の土地は隠居地でした。山上にある宇陀松山城(秋山城)は宇陀三人衆だった秋山氏の城で、秋山氏は伊勢の北畠家中でしたので、宇陀でも織田信雄にやられたことになります。実際は途中に福島正則の弟がおさめるという中継ぎがありました。
織田信長の子孫で江戸時代に大名として存続したのは信雄の系統だけになります。宇陀松山藩は元禄7年(1694)に丹波国柏原へ国替えとなってからは、幕府の天領となり城下町は宇陀千軒と呼ばれるようになります。古い町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。街並みを眺めただけで、道の駅へ寄って、そのまま沢城へ向かいました。